転職日記その11

しばらく、間を空け過ぎてしまいました。

今、思いますとブログを始めようとした動機は、五十過ぎての転職に自分がビビッており、おまけに離婚という人生の大きな問題を目の当たりにし、不安にさいなまれ、それでいて少しワクワクしている自分を表現して、残しておこうというものでした。

行動の結果は、なんとか希望とおりの転職を果たし、離婚も大して大きな問題もなく完了した。というのが簡単な結果です。

では何故ブログを書く気が失せていたか?という要因ですが・・・

書き始めの動機であった不安感や期待感が落ち着いてしまった。つまり、一旦、当面の目標を達成したということです。

では、「転職日記」と題してブログに載せようと思い立ったことを振り返ってみますと、やはり1人でノートに書くのでは無く、誰かに見てもらいたい。また、成功しても失敗しても他の人の参考になればという社会貢献的なこともやってみたいという思いもありました。しかし、全く見られてもおらず、誰の参考にもなっていないので、これについては当初の目標は未達成ということになります。

ということで、ブログを再開してみます。

再開のテーマ名は「転職日記」のままとして、その後の出来事を書くことで、未達成の目標である誰かに見てもらう、

誰かの参考になることをひとつの目標としてみます。

 

既に2年が経過してしまいました。

”その10”においては、

①4カ月の経緯

②社内事情(当社)

③社に事情(親会社)

④家族のその後

⑤人との付き合い方

の順で述べようとしていましたが、

入社4カ月以降が激変しておりますので、その辺りの状況を報告したいと思います。

 

それは「ある日突然、想定外の敵が目の前に現れた」というのが今のところあてはまる言い方だと思います。これは新入りの私と私を受け入れた雇用側の人たちに思わぬ事態が訪れて、その結果、それぞれの本当の敵や隠れていた敵が現れたという感じです。

起こった事象は親会社社長の急死でした。この事により、私を雇用した子会社山田社長(仮称)の引退シナリオはもろくも崩壊しました。

子会社山田社長は実は親会社創業のメンバーであることと、後継者がいなかったために親会社子会社の兼任社長となってしまいました。

次に子会社の遠山役員(仮称)は、私の直属の上司になりますが、この方の元々の立ち位置は山田社長と新入りの私に挟まれており、

山田社長と年齢も近いので、数年の引継ぎをして、お気楽な花道を経て引退するというシナリオでしたが、事態の変化を受けて、

頭の上の蓋が開け放たれることになった為、にわかに活気付くと同時に直ぐ下を見下ろすと私の姿が敵に見えてきたところでしょう。

私の方はというと、そもそも敵も味方も無く、拠り所は私を採用した山田社長しかありませんでしたが、山田社長が兼任社長をすることで

子会社には不在が多くなり、不安を覚える状況がやはり多くなりました。

山田社長が不在にしなければならないのは、当然親会社の新任社長なので、経営幹部に対する手綱を引き、経営資源の核心部分を押さえ込むということが必要になりますが、この経営幹部がとんでもない代物でした。つまり、本来味方になるはずの幹部が使えないやつばかりで、むしろ敵になってしまうというのは、私にとっても多かれ少なかれ敵になってしまうということになります。

親会社には二人の役員がいますが、二人とも職人さんでマネジメントには向いていないということで、後の数名の部長クラスは前社長の影響を大きく受けているようで、何もしないことが幹部として生き残る、楽ができる方法だと認識しているようです。

恐らく意見したり、意を違えることが損害を受けることにつながっており、自主性やリーダーシップを養う必要がなかったのだと予想できます。

いずれにしても、山田社長の敵は、私にとっても遠まわしには敵であり、親会社がしっかりした体制で無いということは私には障害となりました。

以上が入社後約2年間の結果ということになりますが、私がこの会社に来たことで、たまたま事態の変化もあって、今まで触れられていなかったことや顕在化していなかったことが、頭を出し始めた、ぶくぶくと泡を吹き始めた。ということです。

では、本当の隠れていた敵の出現のいきさつについて順に説明いたします。山田社長が私を雇い入れたのも、ご家族の都合で早々に当社(子会社の方)を引退すべく、後継を期待してのものでした。親会社社長も後継を準備しようとした矢先に出くわした急死で、結局山田社長は自分の家庭を犠牲にして、兼任ということを背負わされたということです。しかし、普通は本当に誰もいなかったのか?という疑問が残ります。

ここで親会社社長の人物を語る必要がありますが、端的に表現するとマネジメントができない、社長の器ではなかったということです。

理由は山田社長から聞いたことですが、市場や顧客のニーズを見ないで設備投資を行うものの建屋は老朽化を放置し、近頃は聞かない雨漏りがする社屋だそうです。また、開発やシステムに必要な人材を外部から受け入れていますが、ここ4-5年システムは変わらず、新しい商品も生まれていません。おまけに役員を二人配置していますが一人は相当に気に入って持ち上げた結果ですが、今は冷遇されているそうで、もう一人はどうしたことか古いシステムを長い間変えることができない人を選んでいます。さらに、出世してきた部長級の人はゴマすりは上手いが仕事ができないという連中が多いということです。経営者がまったく経営をしていなかったということです。

山田社長にとって隠れていた本当の敵は親会社の建て直しだったと言えます。そうして子会社には留守勝ちになりました。

子会社の遠山役員に話を移すと世間一般では引退してもおかしくない年齢ですが思いかけず、目の上のたんこぶが外れたことで、社長の順番が早く回って来るかも知れないと色めきたってしまったということです。この遠山役員は山田社長とともに当社をここまでにして来た功労者というポジションですが、山田社長の評価は低く、私が見てもマネジメント力は無く、営業としても経験と知識で二流が精一杯という評価です。

遠山役員はお山の大将であり、逆らう者はいません。実は当社もこのために事なかれ主義が蔓延しています。私だけがたまに異を唱えるので、お互いに敵対することになります。恐らく山田社長は遠山役員と私が手を取り合って会社を運営してほしいと思っているでしょう。しかし、そもそもお山の大将を譲るつもりが無かった遠山役員はこの居心地の良いポジションに居続けたいとしがみつけば私とは対立することは避けられないということです。

最後の一角の当社社員たちは、営業、営業支援、総務、監査、物流という構成になっており、営業、営業支援のリーダーが私の年齢に近く、全体では20-60歳代までおり一般的な中小企業よりも年齢バランスは良い方だと思われる。あくまでも私見ですが、多くのメンバーは人が好く、ストレスや摩擦をわりと上手く回避し、経済的には余裕がある人たちが多いと思われる。とがった人やハングリーな人は遠山役員と衝突したと思われ存在せず、ハイハイと言っておけば良いという事なかれ主義になってしまったと思われる。結果的に考える力が弱く、リーダーシップは育成されていないので遠山役員の後継が居ないとなったわけである。当社社員たちはそんなに目立った敵は存在しないと思われます。

こういった社内事情、人間関係ですが、経営状態についても少し触れておくと、売上・利益ともに過去最高を記録しており、その理由は山田社長と遠山役員がやってきた営業の方向性は間違ってなかったということになります。少し褒め過ぎになるので、私の見解も言うと、この業界のスケールは巨大で参入企業はワールドワイドから町工場まで存在し、裾野奥行きが途方も無く広い為に、大小のカテゴリーやセグメント内での一般的な市場サイクルはあるものの業界全体はゆっくりと(この時間要素が最大の特徴)成長・衰退があり、業界の基礎的な部分に関わる市場の変化は波が特に大きくゆっくりなので判り難い。まじめな仕事を真摯にしておれば、業界の特性から会社が傾くことは無いと言われることから、上手く好況に乗れていると思われます。事実、同業者も良いということです。

このような会社の業績なので山田社長の急務は経営基盤を内から外から整備し、強化して、後継を準備することでしたが、好調の度が過ぎて、供給問題が発生し、その対応の方が優先順位が高くなってしまいました。山田社長のやるべきことを経営資源の観点で言うと、金と物は着手しているが、人の絵が描けておらず、敵となってしまっている者を手なずけて、しかも後継となるべく育てるという至難の業を残していると見て大きな相違はないと考えます。

 

以上が状況報告となります。

次回はもう少し状況の変化について述べたいと思います。